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zoom RSS 偽善ってなに?

<<   作成日時 : 2008/07/23 23:10   >>

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チャリティって 『偽善』?

ときどき「慈善って、偽善っぽくてできない」という人がいる。
慈善活動というと、「慈しみの善き行ない」である。

こんな字義をきくと、自分とはかけ離れていて、
ナンとも違和感がある。

では、“慈善” の反対が “偽善” なのかというと、どうも違う気がする。
いったい偽善=偽りの善って なんだろう?

やましい下心がある、とか、心からの行為ではない、ということか・・・
では、心からでなく、下心がある善き行為は、『善』 ではないのだと?

その定義からすると、『偽悪』 という言葉は聞かないが、あるとするならば
良心の呵責に苛まれながらの悪い行為、ということになるだろうか。

つまり、偽善も偽悪も、善悪の反対用語ではなく、
その“途上の行為”と言えなくもない。

偽善の延長線が慈善になり、偽悪の延長線は極悪になるのだと。
前者は大いに増幅すべきもので、後者は自粛すべきもの。

悪人は最初から悪い人だったわけではないとよく言われる。
小さな悪癖から次第に悪の道に染まっていくのだと。

では善人は最初から善き人ではなく、下心丸出しからはじまり
次第に善の道に染まっていく(?)のも不思議ではない。

なにを隠そう、わたしはその最たる見本である。
10年前、インド占星術の先生(インド人)から

「運命を変える、もっとも早道は “チャリティ活動”である」

と教えられたのがきっかけだ。今ではそんなこと
どうでもよく、『したいから する』に変わっていった。

それは、人として当たり前のことだから。


昨日、南インドにあるティル・マンガイマダムという寺院に行った。
そこで聞いた寺院の物語を聞いて、大いに感銘を受けた。

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ティル・マンガイマダム

画像


遠いむかし、ときは13世紀頃、インドにティル・マンガイアールワール
(Thirumangaialwuar)というキングがいた。

あるとき独身だった彼は、クムダワリ(Kumuthavalli)という女性に恋をし
結婚を申し込んだ。するとその女性からは、

「あなたがこれから毎日、ヴィシュヌ神の信奉者のうち貧しい1000人
にカード・ライスを無償で施すことができるなら、1000日後に結婚を
考えてあげてもいいわ」

注)カード・ライスとはインド人がよく食するヨーグルトごはんのこと。ヴィシュヌ神の好物。

と、期限付き条件を出された。

これを聞いて嬉しくなったキングは、それから毎日1000人の貧しい人々
にフリーミールを施すことにした。

すると、とうとう財産が尽きてしまった。

困ったキングは、国民に膨大な税金を課してまでも
お金を集めて施し続けたのであった。

しかし、法外な課税に怒った国民は、とうとうキングの
王位を奪い、彼を国から追い出してしまった。

国を追われた元キングは、数人の彼を慕っている
従者とともに森に住むことになった。

それから毎日、従者は木の上で通行人を確認して元キングに
伝える日々がはじまった。通行人の価値ある宝石・貴金属を
奪ってお金に換えて、フリーミールを施すために。

彼女との約束は「毎日施す」ことだった。日々安定した
収入があるわけでない彼は、キングだったときに自ら建立した
寺院、ティル・マンガイマダムに行ってはヴィシュヌ神に祈った。

「どうか、わたしにフリーミールが毎日施し続けられる、
安定した財をお与えください」


と。するとある日、ヴィシュヌ神とその妻 ラクシュミー女神は、
人間の新婚夫婦に姿を変え、きらびやかで高価な装飾品を
身につけ彼の前に現れた。

それを見た元キングは、カップルの装飾品を奪おうと立ちはだかった。
「なぜそれほどまでに執拗に奪おうとするのか?」 と、男性の姿に
変えたヴィシュヌ神に問われた。

元キングはその理由を一部始終、話すことにした。

事情を理解したカップルは、すべての装飾品を与えることを承諾した。
しかし、男性の足首にまとっていたアンクレット(足輪)だけが外せなかった。

男性扮するヴィシュヌ神は、「このアンクレットはあなたが外しなさい」
と指示した。

彼は「わかりました」 と、ひとつでも高価な品物を手に入れようと、
必死でヴィシュヌ神の足首のそれと闘った。しかし、どうしても
フックは外せなかった。

とうとう歯を使ってそのフックを外そうと、足元に顔を近づけた。

まさにその瞬間、彼の頭がヴィシュヌ神の足に触れ、そのまま
ニャーナ(知恵)が授かり、悟りの境地に至った。


※聖者の御足元に頭をつけて礼拝することが、聖なるものになる近道

それは彼の結婚の是非が決まる1000日直前の出来事だった。
精神的最上の喜びを得た彼には、もう、結婚という物質的喜びは
不要となり、そのまま聖者として森で暮らし始めたのだと。

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インドでは、権力や財が豊富な王様より、精神性が高い聖者や
僧侶のほうが、位()が高くなる。

彼は、王様(キング)という物質的最高峰にいるなかで 『結婚』 という
欲望を満足させるために始めた慈善活動だったが、それを超える
ニャーナ(悟り)という報酬に替わって、人生を変えたのである。

ヴィシュヌ神は彼の施しに下心があるからと、その行為を受け
入れなかったわけではない。まして、金銀財宝を盗みながらも
施し続けた彼の一途な行為に、救いの道を示したという話しである。


つまり、偽善だと言って目の前のできることをしないより、
下心大ありでも“何かできることをする” ほうが、その先に
道が開ける
ということだ。

偽善だろうが慈善だろうが、教育支援を受けた子どもたちの
未来が明るくなることに変わりはない。

そこにどんな違いがあるというのか?

“偽善” だと言って何もしない深い意識には、「なにもしない」ことを
正当化している下心があるのかもしれない。

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